INTERVIEW

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一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

松澤俊幸(元長野エルザSC 最初のサポーター)

ダービーへの期待と その先に描く新たな夢

―― 2004年には山雅が「NPO法人アルウィンスポーツプロジェクト」を発足し、Jリーグ入りに向けて再出発しました。それについてはどう受け止めましたか?

その前年の2003年に山雅のサポーターさんが発足して、すごく嬉しかったです。私が始めた当時にサポーターが存在していたのはエルザと上田ジェンシャンだけで、ジェンシャンのサポーターの皆さんは県外の方ばかりでした。

その中で山雅のサポーターが生まれたので、「チームだけでなくサポーター同士でも戦える」と思ってワクワクしました。ただ、私は諏訪の人間だからかもしれませんが「長野が一番」「松本が一番」というような意識はなかったんです。個人的には山雅の方とも交流を結びたかったのですが、「長野が一番」という考えの人もいるから難しかったですね。山雅にはかなり苦しめられましたが、勝っても負けても楽しさがありました。

―― 山雅戦で印象に残っている試合はありますか?

2002年にリバーフロントで戦った天皇杯で負けたのを、よく覚えています。その時はエルザがボールを動かして、山雅はずっとカウンターを狙っていました。それで点を取られて負けて、試合後に山雅のキャプテンが「エルザに対抗するにはカウンターしかなかった」と言ってて、相手の策にはまって負けたのがすごく悔しかったので、その言葉は今も印象に残っています。

―― 当時は山雅のサポーターがいなかったと思いますが、サポーターが入るようになってからの山雅のサッカーが変わったと感じましたか?

以前に比べて当たりも強くなって、明確な意思が伝わってくるサッカーになりました。山雅は元々教員が多いチームでしたが、そうでない選手たちも集まってくるようになって、強化されてきていると感じました。サポーターもどんどん増えていったので、自分たちも負けないようにと思っていました。

自分たちはとにかく声で負けないようにすること、少しずつでも来場者を増やして新しい熱量をゴール裏に生みだそうと思っていました。すると新しく加わった皆さんが仲間をつれてきてくれて、少しずつ賑やかになりました。例えば山梨の大月から来てくれていた人もいました。

―― ご自身は2006年を最後に第一線から退かれたとのことですが、どういった経緯がありましたか?

実は病気になってしまって、長距離の移動が大きな負担になりました。試合中にも小さな発作が起こるようになってました。ちょうどそのタイミングで次の世代の人たちが「自分たちのやり方でやりたい」という想いを持ち始めていたので、そこへの期待感がありました。考え方の違いで辞めたと思われている方がいらっしゃったみたいですが、それは違いますね。

一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

―― 次の世代の考え方を尊重しながらも、引き継いで欲しいと思っていたことはありますか?

やはり戦うことです。1人1人が選手たちに声をかけて、共に戦うということをずっと言い続けてきました。

―― コールリーダーを終えた時は、どんな心境がありましたか?

終わった時にはやり切った感覚がありました。その時にはサポーターも増えていて、直接話したことがない人もいたし、仲間達の中に、新しいことをしてみたい、自分たちのやり方でやってみたいという気運に満ちてきたので、私の役目はここで終わりかなと思いました。

―― そこからエルザも山雅も徐々にステップアップして、信州ダービーも盛り上がっていきました。その過程は外からどう見ていましたか?

どこのクラブというのは関係なく、とにかく長野県からJ1に昇格するクラブが出てきて欲しいと思っていました。パルセイロも上のカテゴリーに行くことでメディアへの露出が増えて、それによってサポーターの人数が増えていったと思います。だからこそJ1に昇格するクラブを待ち望んでいました。山雅さんに先を越されましたが、私はいつかパルセイロにそうなって欲しいと思っています。

私の今の夢は、長野県のチームがJ1に昇格して、今度は鹿島のサポーターとしてそれを倒すこと。昇格したチームというのは、上位カテゴリーのチームに負けることで強くなっていくと思います。だから山雅がJ1に昇格してきた時には燃えましたね。残念ながら鹿島はアルウィンで負けてしまいましたが…(笑)

―― いつかはJ1でパルセイロと鹿島の対戦が見られるかもしれません。

今はパルセイロが好きだからこそ、パルセイロと戦いたくなってしまいます。自分が関わっていない間にパルセイロがどれだけ力をつけたのか。それを逆のゴール裏から見るのが楽しみで仕方ないし、「早く上がってきてくれ」「絶対倒してやる」と思っています(笑)。

―― 昨年の長野Uスタジアムでの信州ダービーには、13,244人の観衆が集いました。それについてはどう感じましたか?

少ない人数で始めたことがあれだけの人数になったということに、自分が関わらなくなった後のクラブとサポーターの頑張りを感じました。テレビなどでオレンジに染まったスタジアムを見て、嬉しくて泣きそうになりました。

一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

―― 現在はトップとレディースにおいて、諏訪地方出身の選手も活躍しています。

諏訪はもちろんですが、中信や南信にもパルセイロのサポーターが沢山いるチームになって欲しいです。山雅に負けないサッカーができれば、他の地域からもそうやって人が集まってくると思います。

―― 今年も信州ダービーが行われます。チームにはどんな期待を抱いていますか?

とにかく一試合一試合を大切にして、勝つことに向かってほしい。もっと言えば、勝つための最短の道を選んでほしいです。J3からJ2にカテゴリーが上がることによって、クラブの知名度もサポーターの気概も変わってくると思います。J1に昇格することはもっと大きな壁なので、まずはその壁を乗り越えるための体力をJ2でつけること。エスカレーターを上り下りするようなチームになるのではなく、常に安定した戦いができるチーム・クラブになること。いまは山雅と同じカテゴリーにいるので、お互いに高め合って強くなってもらえればいいと思っています。


信州ダービー2023