INTERVIEW

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一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

松澤俊幸(元長野エルザSC 最初のサポーター)

夢を描きながら 一緒に戦う集団に

―― 2002年は日韓W杯があって、全国的にサッカー熱が高まっていました。その影響はエルザにもありましたか?

サポーターはそこまで増えなかったですが、見に来てくれる人は少しずつ増えたように記憶しています。あまりメディアに露出していなかったにもかかわらず、そこにサッカーがあるんだと嗅ぎつけてくる人がいました。そこから若い人たちが増えていったのが2003年。当時はビラ配りをしたりしましたが、クラブの努力もあってJリーグに向けて頑張っていることが少しずつ伝わり始めたんだと思います。
私は諏訪から応援に行っていて、時には「長野市のチームだから長野市の人にリーダーになって欲しい」と言われたこともありました。それは鹿島時代にも経験していたことですが、長野県全体を巻き込んでいきたいのなら、長野市にこだわる必要があるのかな?と思っていました。とにかく始めたのは私なので、私がやっていくしかなくて。チャントも全て自分たちで作っていました。

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―― いまも歌われているチャントはありますか?

私が2006年にスタジアムに行けなくなった時に、新しくやろうしている人たちに対して「自分たちでやりたいのなら、自分たちで作るのが良いと思う」と話しました。そのタイミングで新しいチャントに全部切り替わったので、今も歌われているものはないです。新しい人たちには「自分たちで作ること」「それをみんなに歌ってもらうこと」を僕と同じように経験して欲しかったので、全てリセットさせてもらいました。

―― 始めた当初はSNSも普及していない中で、どのような広め方をしていましたか?

会場に来ている人たちには、オレンジ色の紙に応援の楽しみ方やチャントを書いたものを渡していました。来ていない人たちにはサポーターチーム名だった「el-voce(エル・ヴォーチェ)」のホームページで発信していました。

―― 地元チームを応援する楽しさというのは感じられましたか?

当時は若かったというのもあると思いますが、すごく楽しかったです。月から金まで仕事をして、土日はサッカーに費やす。そこは全く抵抗なくやれていました。

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―― 今のクラブはJリーグに加盟していて、サッカー専用スタジアムもあります。そういった未来予想図は描いていましたか?

もちろん夢は描いていました。まずは北信越リーグからJFLに昇格することが目標としてあって、そのために地決(全国地域リーグ決勝大会)に行くこと。そこからJFLに昇格すれば、スタジアム建設などの話も出てくると思っていました。

―― 2002年には南長野運動公園に球技場が完成しました。当時の心境はいかがでしたか?

あの時は嬉しかったですね。それまでは東和田(運動公園)の陸上競技場を使っていて、天皇杯の時などは土のグラウンドで試合をすることもあったので、球技場ができただけで十分だと思っていました。

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―― 遡れば1998年に長野冬季五輪が開催されるにあたって、ハードが整備されていきました。その影響もあって、徐々にスポーツ熱の高まりを感じていた部分もあるでしょうか?

それはありましたし、スポーツで長野独自のものをみんなが探していたと思います。2006年には信濃グランセローズが創設されたり、地域の方から応援について意見を求められたこともありました。私から特に言えることはなかったですが、「チームがどんな状況になっても一緒にいてあげてください」とお伝えました。エルザに関して言えば、2002年に北信越リーグで優勝しましたが、県リーグに降格したとしても応援するつもりでいました。

―― エルザに関しては、サポーターをどのような集団にしたいと考えていましたか?

選手と一緒に戦う集団にしたいと思っていました。最初はブーイングも封じていて、相手が攻めてきたらブーイングするのではなくて、自分たちの声の圧力で止めようと。だから、私がブーイングしたのは相手が酷いファウルをした時だけでした。昔の鹿島もブーイングを抑える傾向があって、家族でも行ける雰囲気の良さがありました。強さと優しさのある雰囲気をエルザでも作っていけないかと考えていました。もちろん違う考えをもった若い人たちもいましたが、それはそれで良かったと思います。とにかく一人でも多く応援に来てくれれば嬉しかったです。

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―― サポーターが試合の雰囲気を変えられたと感じたエピソードはありますか?

アルウィンで試合をしたときに「ここが堪えどころだぞ!」と叫んだら、それが選手たちにも聞こえたみたいで、試合後に「そう思った」と言っていました(笑)。当時は人数も少なかったので、生の声が届き易かったんです。そういう部分も含めて、一緒に戦う集団にしたいと思っていました。

―― 当時はコールリーダーという役職も担っていたのでしょうか?

太鼓を叩きながらコールリーダーをやっていました。毎試合のように手の皮が破れてしまうので、テーピングをぐるぐる巻きにしていましたが、それでも破れてしまうので大変でした。コールリーダーとしては自分の声の大きさに自信があったし、人数もそれほど多くなかったので、トラメガを使わずにやっていました。周りのみんなのノリも良くて、一緒に戦ってくれていました。

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