INTERVIEW

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一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

松澤俊幸(元長野エルザSC 最初のサポーター)

2001年、長野エルザSC(長野パルセイロの前身)に1人目のサポーターが誕生した。鹿島アントラーズのゴール裏にいた松澤俊幸氏だ。どのような経緯で地元の小さなクラブに目を向け、どのように活動を広げていったのか。そして、現在のクラブと信州ダービーに懸ける期待とは――。

鹿島での経験を生かし たった1人で始めた応援

―― 元々は学校教員として北信地域で勤務していた際に、長野エルザSCに出会ったそうですね。

1999年に丸山朗さん(長野エルザSC創設者・元代表)に出会ったことが最初のきっかけでした。私は当時、長野西高校サッカー部の副顧問をしていました。その関係で2000年に顧問会に行ったときに、丸山さんと当時のエルザの監督が来ていたんです。そこで鹿島アントラーズを応援しているという話をしたら、「地元のチーム(エルザ)も応援してくれないか」と言われて。それからエルザが県リーグに降格してしまったので、「北信越リーグに戻ったら改めてお願いね」と話を受けました。

私からは「でも面白いサッカーでないとやらない」と伝えていました。ただ単に地元のチームだから応援するというわけではなく、好きなチームを応援したいという気持ちが強かったからです。そこから初めてエルザの試合を見たのが、2001年の北信越リーグ第1節・上田ジェンシャン(2019年に解散)戦でした。負けてはしまいましたが、エルザがボールを良く動かす面白いサッカーをしていたので、その場で応援することを決めました。

一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志
一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

―― 鹿島の応援をされていたのはいつ頃からでしょうか?

元々ジーコのファンだったんです。トヨタカップでジーコが来日したときに、その試合をテレビで見ていました。ブラジルはペレのような選手もいたし、ジーコもどんな選手かはなんとなく知っていたので、自然と興味を持っていました。

そのジーコが1991年に住友金属工業(現鹿島アントラーズ)に来たときに、そのままチームのファンになりました。Jリーグが1993年に始まって、それ以降にカシマスタジアムに行ったり、アウェイにも行ったり。ただ、エルザの応援を打診された2000年に鹿島が3冠(Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯)を達成したので、そこを一区切りにして地元長野のチームを応援したいと考えました。

―― ちなみにご自身はサッカーのプレー経験はあったのでしょうか?

プレー経験はないですが、サポーターの経験があったので、サッカー部の副顧問になってしまいました(笑)。

―― エルザのサポーターになって、最初に応援した試合は覚えていますか?

山雅クラブ(現松本山雅FC)との試合で、アルウィンのサブグラウンドでありました。そのときは私1人しかサポーターがいなかったですが、大遅刻をしてしまって…試合が終わる頃に会場に着きました。ただ、当時は丸山さんが長野吉田高校の監督をしていて、教え子の選手たちが応援をしていました。そこに私が後から入って、一緒に応援したような形です。当時は山雅側にもサポーターがいなかったので、いきなり私が太鼓を鳴らすと、選手たちがみんな驚いてこちらを向いてしまいました(笑)。

―― エルザは小湊隆延監督が指揮していましたが、どんな印象を抱いていましたか?

最初に見た試合では、相手の上田ジェンシャンが堅い守備と鋭い攻撃をしている中で、それを巧くかわしながらプレーしていました。当時の鹿島に似たようなところがあったので、それでエルザが好きになったのかもしれません。

―― 最初のうちは、一人で応援することに戸惑うところもありましたか?

そこへの抵抗はなかったですね。応援を始めた2001年は諏訪に転勤していて、諏訪の仲間を連れていくわけにもいかなかったので、とにかく1人でも始めるしかないと思っていました。

―― 旗や太鼓はすべて自腹で用意していたのでしょうか?

そうですね。材料は鹿島で見たものを参考にしたりしましたが、デザインは自分でやっていました。まずは旗と太鼓を用意して、その後に横断幕を付け足したような形です。

―― 鹿島時代の経験が生きたところはありますか?

鹿島では中心に活動していた皆さんが、周りをすごくまとめていました。私はその方々を見ていて、「自分がやるときもこんなふうに…」と考えていました。

―― サポーターの数というのは、どのように増やしていきましたか?

最初に1人で始めたときには、観客というのはクラブ関係者か選手の保護者くらいしかいませんでした。その中で、のちに一緒に応援することになった方が、観客席にたまたまいたんです。彼は浦和のサポーターでしたが、「こんなことをやっている人がいるのか」と興味を持ってくれて、一緒にやりたいと声をかけてくれました。その年はあと2人やりたいと言ってくれた人がいて、一人は元エルザの選手でした。もう一人の方は翌年に県外に行ってしまいましたが、最終的には4人でやっていました。

―― その年のエルザの戦いぶりはいかがでしたか?

2001年はなかなか勝てなくて、終盤になってようやく新潟蹴友会(現グランセナ新潟FC)に勝ちました。そのときはアウェイだったのでサポーターは私1人しかいなくて、小湊監督のお兄さんも手伝ってくれて、勝った時には選手たちと抱きついて大騒ぎでした。その後に連勝したので、なんとか北信越リーグに残ることができました。

―― アウェイも含めて全試合に行っていたのでしょうか?

最初は上田ジェンシャンや日精樹脂工業(現リベルタス千曲FC)のような県内のチームとの対戦は行っていましたが、県外に行った数は少なかったです。翌年の2002年からはよく遠征してました。

一番最初のサポーター 次世代に引き継いだ闘志

―― それだけ最初の1年間でチームへの思い入れが強くなったということでしょうか?

選手とも実際に話をしていく中で、それぞれの立場や考え方を知って、彼らを好きになりました。当時のエルザはいわば寄せ集めのようなチームで、飯田から来ている選手もいれば、富山の黒部から来ている選手もいました。練習には出れず、試合の時だけ合流するだけの選手もいました。「彼らを惹きつけているエルザの魅力はなんだろう」と考えたら、「楽しいサッカー」という答えに行き着きました。仲間ができたことによって、お互いに融通を利かせながら応援に行けるようになったことも大きかったと思います。