INTERVIEW

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先人を追い続けた “本物のダービー”の追憶

丸山 朗(元長野エルザSC代表)& 町田善行(現AC長野パルセイロ代表取締役社長)

隣の芝生は緑というよりも、青く見えていた。サッカー不毛の地・北信で歴史を紡いできたAC長野パルセイロにとって、松本山雅FCとはどのような存在だったのか。クラブとともに歩んできた2人が、「信州ダービー」の歴史を丹念にひも解いてゆく。

先人を追い続けた “本物のダービー”の追憶

不毛の地であがき 常に山雅の背中を追う

―― AC長野パルセイロは1990年に前身の長野エルザSCが発足し、歩みが始まりました。当時を振り返っていかがですか?

丸山最初はとにかく勝つことしか考えていなかったと思います。県リーグの入れ替え戦には、大ベテランの私も途中から出ていました(笑)。最後の10分で、1点差で勝っているのにチームが慌ててしまって、私がセンターバックに入って「とにかく前に蹴れ」と指示をしましたね。タッチラインの外にさえ出せば、時間が稼げるのでなんとかなる――と。県リーグに昇格した1年目も、基本は守備から。それでなんとかカウンターで点を取って、いきなり優勝しました。そこから2006年にバドゥ(監督)が来て、パスを回して崩すことを徹底するようになりました。

町田私も選手の一人でしたが、忠鉢(信一)にだいぶ意識を変えられました。彼は年代別日本代表も経験して朝日新聞に入り、長野に赴任してエルザでプレーしていたんです。自分の中で「今そこに走ればよかった」という局面があるじゃないですか。忠鉢はそこに出して、私が行けなかった時に「これをやれなかったらダメだ」とボロクソに言うわけです。そこから徐々に、そういう上昇志向のある選手たちが集まっていったと思います。

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町田丸山先生はどちらのクラブにも所属していましたし、私も天皇杯の県大会を一緒に運営していたので、2人とも山雅とは仲が良かったですよね。最初は「お前ら、早くJリーグに行けよ!」という感じでした。松本のほうがどう考えてもサッカーが盛り上がっていましたし、私たちは“不毛の北信”だったので、全然慌てていなくて。

丸山当時は長野県にJクラブを作ろうとしている団体があって、各チームに声をかけていました。その時に、エルザだけは「JFLを目指します」と。あくまで一つ上の段階を目指してやっていて、Jは無理だと思っていました。山雅もそう言っていましたが、私は「行けよ!」としか思わなくて。松本はサッカー人口もサポーターも多いですし、アルウィンもあるから。それなのにエルザが北信越リーグに定着し始めてからは、山雅のほうがリーグ戦の成績が悪かったんです。「何をやっているんだ、早く上に行け!」という気持ちで、山雅が上にいるのが当然だと思っていましたよ。

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町田特にライバル心はなかったですよね。私たちは「一歩ずつやっていくから」と話していましたし。

丸山地域的に見ても、長野市民が松本市民に対してライバル心を持っていたかと言えば、そうではなかったと思います。あくまで、みんな同じ長野県の一つの町だと。でも、松本は違うんです(笑)。たとえば私は1991年に、中信地方以外の人間で初めて国体(少年男子)長野県選抜の監督になりました。県内の4地域から1人は必ず選ぶという方針を出して、長野高校の双子の選手を選出しましたが、松本の方々から非常に反感を買いましたよ。

その年は石川国体だったので、北信越から(地元開催の石川県選抜を除いて)4県中3県の選抜が出られる状況。予選は大町市でホームのはずなのに、スタンドの空気感が悪くて(笑)。前半は0-1で負けていて後半に双子を投入しましたが。結果的にはその2人が得点とアシストをして逆転勝ちしました。

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PROFILE
丸山 朗(まるやま・あきら) 1954年生まれ、長野市出身。長野高校に編入し、上智大学を経て高校教諭としてキャリアをスタートさせた。その傍らで選手としてもプレーし、全長野県教員蹴球団、松本山雅シニアズに在籍。1990年にAC長野パルセイロの前身となる長野エルザSCを創設して代表を務めた。AC長野パルセイロに改称して以降は育成普及本部長、地域アカデミーアドバイザーなどを歴任。日本サッカー協会公認A級コーチライセンス所持。

―― 長野県のサッカーの中心は松本で、北信は不毛の地と言われ続けてきました。そういったコンプレックスのようなものが原動力になったのでしょうか?

丸山そうですね。私は高校1年の夏休みに新潟高校から長野高校に転校しました。その時の監督が松本にすごくライバル心を持っていて、県のベスト4まで行ったんです。私はそういう環境でプレーしてきたので、自分が高校の教師になっても「松本の高校に対してなんとか一泡吹かせたい」と常に思っていました。選手を外から取るのが嫌いなので、集まってきた選手たちを鍛えていましたが、最高でもベスト8やベスト4。最終的には負けてしまうので、ただただ悔しかったです。

とはいえ、ライバル心としてはそれくらいのものです。私はワールドカップ(W杯)を3回観に行って、海外のサッカー文化がすごく羨ましかったので、そういう環境が長野県でもできないかと思っていました。その一つの拠点となる長野Uスタジアムができたのは素晴らしいことですし、日本一のスタジアムだと思っています。サッカーという文化を広げたいという気持ちが大きいです。

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PROFILE
町田 善行(まちだ・よしゆき) 1968年生まれ、中野市出身。設計事務所勤務の1990年、新たに創設された長野エルザSCの初代メンバーに名を連ねる。引退後はボランティアとしてクラブを支え、クラブ名称変更および法人化と同時に最初の社員となって組織を整備。GM、総務部長、統括本部長、副社長などを歴任し、2021年から代表取締役社長を務める。

町田私も丸山先生とあまり想いは変わらないです。でも、ことあるごとに山雅に負けるんですよね…。そうすると、その試合に向けて周囲が気合いを入れるので、選手たちも勝たないといけないと感じるんです。それでも負けて、「悔しい」というのを繰り返していたので、ライバル心ではないですが、「勝てば気持ちいい」と思うようになりました。

丸山いつも肝心なところで負けて、いつも山雅が先を行ってたんですよ。

町田リーグ戦で山雅の順位が下でも、ダービーになれば勝ち点3を持って行かれてしまうという…。