先人を追い続けた “本物のダービー”の追憶
丸山 朗(元長野エルザSC代表)& 町田善行(現AC長野パルセイロ代表取締役社長)
「アルウィン」で得た刺激 満員のオレンジを夢見て
―― 2009年の全国社会人選手権では、準決勝で山雅に敗れました。
町田その前年に地決で敗退しましたが(第32回全国地域サッカーリーグ決勝大会でグループリーグ敗退)、それに次いで切なかったですね…。全国の舞台で山雅に負けて、リーグ戦も2位でした。
丸山私は逆で、2008年はうまく行きすぎたので(リーグ戦と全国社会人選手権で優勝)、「これは後で何かがある」と思っていました。でも、さすがに地決で敗退した夜は飲んで荒れましたね(笑)。「山雅がまた私たちの上に行ってしまうのか…」と。その年は天皇杯でもリーグ3位だった山雅に負けてしまったので、悔しかったですよ。
町田「また夢を打ち砕かれたな」と。地決で負けた後は、サポーターが出待ちしていたので、キャプテンの籾谷(真弘)と挨拶に行きました。後でサポーターに聞いたら「温かい眼差しだった」と言ってくれましたが、当時は針のような視線で刺される感覚で、行くのが怖かったんです。でも、しっかりと謝らないといけなくて。籾谷が一生懸命に話しているのを見て、すごく切なくなりました。
―― 当時の信州ダービーの雰囲気は、どのように感じていましたか?
町田他県から来た選手たちは、すごく戸惑っていました。周囲から「松本には勝て!」と言われて、「町田さん、なんですかこれは」「ここだけ勝てばいいんですか」と…(笑)。
丸山普通にやれば勝てるのに、どこか変になってしまうところはあったと思います。あとは山雅の勢いが明らかに違うところもありました(笑)。
町田南長野でやる時は、だいたい山雅サポーターに埋め尽くされていましたね。芝の席がギュウギュウになって…。
丸山そういう意味では、山雅に「ありがとう」と思っているんです。相手にライバル心を持たれると、自然とこちらもそうなりますよね。ダービーはサッカー文化の一つですし、それで北信の方々のパルセイロ愛が深まっていったと思います。強くなるためには何が必要か、だんだんと分かっていきました。
町田私も山雅からすごく刺激を受けました。それと同時に「パルセイロがここまで行けるのか…?」とも考えましたね。山雅に比べて歴史が半分くらいしかないし、かと言って何十年と待っているわけにはいかない。JFLに上がれなかった時は、まだまだ何かが足りないのだと思うようにしていました。
丸山昔から松本のサッカー熱は本当に凄いですよ。私は「Jリーグを目指せ!」と何度言ってきたことか(笑)。
町田山雅がようやくJFLに行った2009年、私は地決の決勝でアルウィンのメディア受付にいました。あくまで長野県サッカー協会の一員として手伝っていましたが、松本の方からは「よく来られるね!?」と言われて(笑)。おそらくその方々は、逆の立場だったら行きたくなかったんだと思います。地決決勝は3日間あって、日に日に「(JFLに)行けるんじゃないか」という空気感ができて、最終戦は1万人。老若男女、多くの方々が山雅を上がらせるために駆けつけて、本当にびっくりしました。私もその空気感をじかに味わえたので、行って正解だと思いましたよ。
丸山私はアルウィン完成に尽力された方とは非常に仲が良くて、相当な努力をされていたことを知っています。そこまでできる土壌が松本にはあって、こちらにはなかった。改修前の南長野の雰囲気が大好きで、あれを作ってくれただけでも凄く嬉しかった。でも、そこにまた新しいサッカースタジアムが本当にできるのか。北信にはサッカーが根付いていなかったので、アルウィンのようなスタジアムができるとは思っていなかったんです。せいぜい1万人くらいかと思っていましたが、いきなりJ1仕様で作ってくれた時は驚きましたね。
町田そういえば、東和田(長野運動公園総合運動場陸上競技場)に1万人が来たこともありましたよね。
丸山そうだった。1990年台の終わりに長野市サッカー協会の10周年記念で(鹿島)アントラーズとジェフ(市原=当時)が試合をして、アントラーズには柳沢(敦)、ジェフには武田(修宏)がいました。しかもアントラーズのゴール裏には、長野県の高校でサッカー部の顧問をやっている方がいました。その方とは顧問会でお会いして、「長野エルザも応援してくれ!」と言ったら本当に来てくれて、彼が長野エルザの最初のサポーターになりました。北信越リーグで太鼓を持って、一人でドンドンと鳴らしていたのを覚えています。
町田それが始まりで、徐々に人が増えていって。山雅のサポーターに比べれば少なかったですが、JFLに行った時はまた増えたと感じましたし、アルウィンに行く方も多くなりましたね。選手入場の時に旗を掲げている姿を見て、「本気で勝ちたいと思って来てくれているんだな」と。これが満員になればいいと思っていました。